「貴重な文化の遺伝子を残す」
どこの出版社も出さないけれど、次の時代に残さなければならない本があるはず。
20年、30年経ってもキラリと光る本を、自らの手で作り続けたい。
人権・環境・アート、特にアートにはあまり嘘がない。本物であれば残る。
いいものは必ず残るし、一旦消えても次の時代に復活すると思うんです。
「瞬発力はないんです」
1000メートル走は無理、マラソンをやるほどの体力はないけれど、
散歩は強い(笑)。
長いスパンでやっていければいいと思うんです。
在阪の表現者にはすごい方が多い。ハンディキャップがある中で頑張っている。
ただ、例えばどんな写真を撮る人でも、ただ写真を撮っているだけだと、
わけの分からんおっさんです(笑)。
それを、写真集を出すことによって、つまり社会化することによって、
「写真家」になるわけです。
そういうお手伝いをしてきたし、これからもしていきたい。
今、多数の本を出版させてもらっている著者の方々も、みな当時は若かった。
同世代の表現者たちと30代、40代を一緒に成長し、
歩いてきたという感じがします。
「地味で静かだけど、根を張った出版」
少数者や弱者の視座に立つ、惻隠の情を込めた「サラム草書」、
22年かけて83冊を刊行した、昭和の遺言書、「なにわ塾叢書」、
そんな人権、環境、アートをテーマに、これまで420点を発刊。
世の中を真正面から捕らえ、発信するする社会啓発の書籍群、
これこそ、大阪にふさわしい出版だと確信しています。
「飯を喰うことと志の両立」
志だけでは生きていけない。
出版をやるにあたっては、関係者にきっちりと約束を守りたいという思いがあります。
さらには、自分史や自費出版を手がけない、
つまり身銭を切ってリスクを負って出版活動をしたいと思っています。
ただ、志と生活の糧を両立させるためには、
情報の編集・発信という、出版社としての技術をとことん生かすしかありません。
誰からも干渉されず、どこにも依存しない自立自営の精神、
その実現に向けて書籍出版の傍ら新事業に乗り出し、
いずれの仕事も、下請けではなく自力で契約を掴み取っていきました。
近年では、 国内外の投資家が注目するCSR・IR・PRの編集、制作に力を注いでいます。
環境社会報告書などにおいては、大手シンクタンクと肩を並べ、
トップ3の一角を占めることができました。
出版も数々の賞をいただくことになり、
著者の方々と一緒に成長してきているのをようやく実感するまでに至りました。
「風の彫刻家との出会い」
92年、本社ビルとして「風の万華鏡」が竣工しました。
江戸時代末期、「救民」の旗印を掲げた「大塩平八郎の乱」で知られる
大阪東町奉行所与力、大塩中斎は、私塾「洗心洞」で蜂起してから天神橋で鎮圧されるまで、
大川右岸のこの辺りを駆け抜けていった。
この地は自立自営を掲げる当社の拠点にふさわしいと考え、
風の彫刻家といわれる、新宮晋さんに打診しました。
面食らっていらっしゃいましたが、
「一回だけ建築作品をやるつもりだった。
それは大企業でなくてもいい、ベンチャー企業でもいいし、
なおかつロケーションはどうでもいい、
むしろロケーションが悪ければ悪いほうが面白い。」と言われ、
また、新宮さんが一番興味を示したのは、江戸時代の天満青物市場の跡地だという歴史的なことなんです。
目の前は八軒家の跡、かつての大阪の玄関口の一つというガチャガチャした場所から
世界に情報発信するのは痛快だ、とおっしゃっていました。
その想いは現在も「風の万華鏡」を通し、天満橋から世界へ向けてあらゆる情報が発信されています。
「出版の黄金時代を再び」
竣工から16年が経過した現在も「風の万華鏡」には世界中から見学者が訪れます。
芸術家に評論家、財界人──。
イタリアを代表する建築家、レンゾ・ピアノ氏は
「本来は相反する芸術性と合理性が両立した、極めてまれな成功例だ。」と絶賛して頂きました。
ベンチャー企業でも、著名な芸術家と手を結ぶことで、世界に通用するものが作れた。
あきらめなければ必ず何かを成し遂げられるという、わが社の精神的なシンボルでもあります。
また、ギャラリーや彩都メディア図書館、映画館への企画運営への参加など、
大阪発で社会に変革を呼び起こす姿勢は揺るいでいません。
「大阪の出版文化が、輝いていた70年代。『プガジャ』や『オール関西』、『放送朝日』の雑誌から、
多くの表現者が育っていきました。これからは次世代の表現者をどんどん育てていきたい。」
と思うんです。
今までもこれからも。
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